びすくんです
8月6日は広島に原爆が落とされた日でした。
TVではNHK以外はオリンピックなどの映像を流しているため、黙祷などはNHKのみとなっています。
なんというか、オリンピックのせいで、薄まった感じがしました
じいさんの話
今は亡き、おじいさんの話を夏になると思い出します。
苦しい時代だった戦争時期の話というのは、あまりしてくれなかった祖父ですが、たまにしてくれたのが思い出です。
じいさんは、戦争に直接行ったわけではないです。
戦争前から、軍事工場に就職し働くようになりました。
現在の川崎市では、川崎区、幸区、中原区は軍事工場が多く建てられました。
三菱重工、東京航空計器、富士通信機製造と多くのメーカーが入っています。
その中でも、うちのじいさんは川崎市中原区の木月住吉町にある、軍事工場で勤務していたようです。
川崎大空襲では逃げ惑ったと言っていました。
爆撃により工場は跡形もなくなり、その後多摩工場へ移動しています。
多摩工場がどの工場かは分かっていませんが、練習機を作ってた旧日立航空機株式会社なのか、中島飛行機を作ってた立川なのかは不明です。
多摩工場では、エンジン製造部門で働いたそうで、戦闘機のエンジンを作っていたそうで、その品質が毎回違うらしく、取り付けるプロペラの位置によっては正常に飛ばないため、穴を開ける位置調整をするようなエンジン製造部門で働いたそうです。
食事事情は、ある程度確保されたいたようですが、玉ねぎの卵とじ丼ばかりだったらしく、それが嫌だったという言葉が脳裏に残ってます。
あれだよね、カツ丼のカツなし丼みたいなもんです。
(それでも当時の食糧事情からすると恵まれていた)
その工場も同じように空襲で壊され、B29による空襲の時の爆風の後遺症で診断書が出され、実家に戻ったため生きながらえたそうです。
ときおり話してくれる戦争時の話ですが、ばあさんはその話をされるのが嫌いらしく、いつも途中で話が切れてしまうため、戦争時の話は断片的です。
それでも、子供の時に聞いた戦争時の話というのは思い出すものですね。
びす。